天心とその書簡

天心とその書簡天心とその書簡
天心とその書簡

この「天心とその書簡」は、岡倉天心が生前、イロイロな方に書簡を送ったものを集めてデータベースにして纏めたもので、その中に岡倉天心が生前に、福井を訪れた際、お世話になった謝礼に、わが家の曽祖父の坪田均に送った書簡もあります。
世界的に活躍した人物なので、美術界(横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山)等幅広い人脈の方々への書簡が残っています。
オペラ台本『The White Fox(白狐)』をも執筆もしています、長年糖尿病を患い、体調をくずして50歳で逝去

晩年はボストン美術館で東洋美術部長で勤めていましたので、奥さんの基子さんへの手紙や、中には英文で書かれた書簡もありました、

もと子-手紙

 

 

 

 

 

 

無事に罷在(まかりあり)候 御安心被下度事業都合にて十一月 末頃迄は滞在可致考候留守中萬事注意被下度候 此程ハ六角氏の外横山氏も参り三人ボストンより二里隔テタ処ニ同居面白く致し居候     ボストン博物館にて七月十三日 天(天心)

もと子殿


プリヤンバタへ書簡
プリヤンバタから天心へインドのタゴールの親戚 にあたる、女流詩人プリヤンバダ・デーヴィー・バネルジー(プラートニックラブ)が天心宛てプリヤンバダ書簡が19通もあります、天心宛てプリヤンバダの最後の書簡(1913年7月4日付)もありったが、天心が体調を壊して、赤倉に療養に行っていて、読まれてないそうだ。
天心を引き立てた、上司にあたる文部官僚の九鬼隆一男爵の妻・九鬼波津子との不倫関係は、彼の芸大校長の更迭との関連をも噂され、世情の好奇の対象となりました。
奥さんの基子さんは病気を理由に別居していたそうな、結構天心はロマンチストだったみたいだね、

 

数ある書簡の中に、わが祖父(谷江長)も記載されていると、北茨城の天心研究家の方からの手紙で「天心とその書簡」下村英時 著書に掲載されていると教えて頂いた。
すぐに図書館で「天心とその書簡」の本を捜した、
特殊な本なので中々無く、県の図書館にあったので、借りて読みました。

書簡内容

坪田均への天心書簡

書簡の説明欄には、谷江長が昭和34年に伊丹で死亡とあるが、事実は昭和30年2月28日です。
間違っているようです。
漢字ばかりの文で解りずらいが、滞在中は歓待を受け見事なお土産を貰ったとあるようだ。

 

下記は坪田均と天心の関係の家系図です。

天心家系図

岡倉天心と谷江長の関係

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