谷江長(たけし) 明治7年10月11日生
出身地 福井市老松下町95番地の2
出生 士族 父 坪田伯(均) 母 百の次男として出生、
(母親百(ひゃく)は岡倉天心の父親 岡倉勘衛門がまだ福井に居た時 [みせ]と結婚した 間に出来 た次女で、岡倉天心の異腹姉にあたる。
実父(坪田均)の職業
福井藩 松平春嶽の下級士族の家で、藩米の収納係であった。軽輩ではあるがわりと裕福な家であった。維新後は20数名の人を使い、機業(羽二重)を営んでいました。・・・(写真あり)
福井市での羽二重事業で、明治31年度版の商工会名簿30件に記載される程であり、坪田性が多く有り親族、谷口惣次郎は、谷江家の初代は谷口次太夫の名前でもあるので、おそらく親族と思われる。
養子入籍
曾祖父(谷江次太平)が75貫文で旗本株(9石2人扶持)を譲受けて士族になった、明治14年7歳で坪田から伯父にあたる谷江二平の元へ、養子入籍(入籍したときの母百との記念写真あり)
学歴
明治25年福井中学校卒業(現:県立藤島高校)越前藩校で明新館、橋本佐内や横井小楠が出ている
明治28年 東京工業学校機械科卒業(現:東京工業大学)
卒業写真に商務長官榎本武揚(函館五稜郭に立てこもり、官軍に抵抗した幕府軍の総師)も写っている。
職歴
明治28年 東京製絨会社に技師で入社 (21歳) →
明治30年 日本毛織株式会社に技師として迎えられる(23歳)
迎えられた当時の月俸給に、日毛60年史に破格の40圓と有る、
明治30年当時の工 員の月俸給は1圓未満の時代である。
明治35年 製絨技術の為 欧米(ドイツ)へ留学(28歳) 3年2ヶ月間、
明治38年6月帰国
谷江技師のもたらした、欧州大陸の製絨技術にもとずいて、機械設備の改良を行い、ラシャ、サージ、フランネルなどの毛織物を製造し、評価が良く、輸入品に比べても劣らずで、折紙をつけられたとの事、
3年もの間で滞在費も乏しくなり、背広を上下別物を着用していて、たまたま渡欧中の岡倉由三郎(岡倉天心の実弟で、谷江長の叔父にあたる英語学者で1929年『新英和大辞典』を出版した人物)から
「見苦しい服装は日本人の恥になるから!」と、忠告されたとの事、
岡倉由三郎の三男は演出家として活躍した岡倉士朗さん
明治43年 トップ&梳毛糸の研究で欧米留学(36歳)
当時は原毛から梳毛糸迄一貫しての生産が無かったが、英国式欧大陸式梳毛製造法が我が国に適する事を知り、帰国後に、
明治44年 加古川工場の東へ第3工場を建設し、原毛から梳毛糸迄一貫して生産する事になった。・・・写真あり
大正2年 織物機械の研究で欧米各国視察(39歳)加古川工場の工場長であった
大正5年 日本毛織㈱ 取締役に就任(42歳)
大正7年、 加古川工場長を辞して、本社の常務取締役で総務部長になった時の「惜別の辞」が残されていた。
谷江長の告別の辞の原稿
大正7年 日本毛織㈱ 常務取締役に就任、在任期間15年間(44歳~59歳迄)
当時の日本毛織の役員 | |
取締役社長 | 川西 清兵衛 |
常務取締役 | 谷江 長 |
取締役 | 有馬 市太郎 |
取締役 | 小曽根 喜一郎 |
取締役 | 沢田 清兵衛 |
監査役 | 木谷 吉次郎 |
監査役 | 秋山 忠直 |
(留学して学んだ織物機械導入により一貫生産が出来、会社の収益を3倍も上げた功績によるもの)
役員は出資者のみで構成されていたが、谷江長は初めて社員からの登用であった。
(写真あり)日本毛織㈱常務役-歴代役員在任期間一覧
大正8年10月(45歳)米国よりヨーロッパに、先進国工場制度を研修し翌年4月に帰国
大正11年 6月 株式会社 伊丹製絨所(羊毛織物工業)を設立 (48歳)
資本金 創業時150万
設立時の伊丹製絨の役員 | |
取締役社長 | 谷江 長 |
取締役 | 川西 清司(川西清兵衛の長男) |
取締役 | 小曽根 貞松 |
取締役 | 沢田 清兵衛 |
監査役 | 松本 鉄次郎 |
相談役 | 川西 清兵衛(日本毛織の社長) |
昭和12年時は、資本金は700万円になる
(日本毛織㈱の常務取締役 総務部長と ㈱ 伊丹製絨所の社長を兼務していた。)
伊丹製絨所創業時の地図Map
敷地55,292坪 建物27.636坪(現在はイオンモール伊丹テラスに)
(写真あり)
主たる製品 毛糸(ダイヤモンド毛糸)・高級毛織物(サージ)を製造(写真あり)
大正13年、大正12年9月1日の関東大震災後の不況の到来で、各地に人員整理に伴う社会主義者(賀川豊彦)による労働争議が日本中に続発、日本毛織も加古川や印南工場も労働組合が組織されて、解雇の取消と清和会の承認を求めてストライキになり、総務部長で常務取締役の谷江長と対立した経過があった。 下記の日本毛織60年史に記載あり、
昭和6年 日本毛織株式会社を辞し、㈱伊丹製絨所に専念する(59歳)
国立国会図書館に伊丹製絨10年史が保管してあります。
リンク有り、国立国会図書館の ㈱伊丹製絨10年史
昭和6年 今津紡毛株式会社を設立 資本金60万円 西宮市津門飯田町
昭和8年 伊丹製絨所 創業10周年を迎える。
昭和10年 篠山分工場建設(兵庫県多紀郡篠山町 5000坪)
昭和10年 株式会社三重製絨工場設立(資本金300万 敷地35,317坪)
昭和11年 桑名製絨所を設立(桑名市大字矢田 敷地 4812坪)
昭和16年 ㈱伊丹製絨所他4社共に東洋紡績株式会社に吸収合併される。
(大正11年~昭和16年3月1日 実動18年8か月)
合併時の伊丹製絨所役員 | |
取締社長 | 谷 江 長 |
専務取締役 | 沢 田 清兵衛 |
常務取締役 | 塚 本 信 雄 |
取締役 | 小曾根 貞 松 |
取締役 | 有 馬 市 蔵 |
監査役 | 近 藤 泰 蔵(実弟) |
監査役 | 町 田 一 男(長女しまの娘婿) |
合併時の各工場の概要
1.伊丹製絨所
敷地: 55,292坪 建物: 27,636坪 従業員: 2,460人
精紡機: 43,658錘 紡毛機: 3,312錘 織機: 124台
2.三重製絨所
敷地: 35,317坪 精紡機:17,312錘 紡毛機:11セット
マグナム 12台 各種染色整理機: 44台
3.桑名製絨所:
敷地:4,812坪 織機:66台
4.篠山分工場
敷地:5,037坪 織機:62台
5.今津紡毛㈱
伊丹製絨所の紡毛部門を分離し、資本金60万で西宮市津門飯田町に設立分も一緒に、合併す
栄誉&公職
昭和3年 毛織物の功績により緑綬褒章を賜る ・・・ (トップ谷江長自画像の写真の胸に有り)
ダイヤモンド毛糸(大正12年秋、松鉄商店社長より懇請以来があり、ダイヤ印の手編み毛糸がトップ染め毛糸として生まれた)等を作り、
戦争中一時中断したが、ダイヤモンド毛糸は、戦後東洋紡績にて復活した。
昭和6年 多額の寄贈をした功績により・・・紺綬褒章を賜る(トップ写真の胸に)
昭和12年 内閣より商工専門委員被迎付・・・繊維の専門知識に優れた者の証し、
昭和14年 商工省より 繊維品物価専門委員被命&毛製品単純化委員被命
寄贈
昭和5年 伊丹町公会堂の建物を寄贈
本館1階131.3坪 2階9坪 付属建物10.9坪 土地311坪(昭和38年取り壊し)
昭和16年 母校福井中学校(現:県立藤島高等学校)のグランド敷地(1101坪)寄贈する。
江戸時代後期には越前藩の藩校 明新館 橋本佐内や横井小楠が出ている。・・・(写真あり)
昭和17年 陸軍へ愛国1210(谷江)号 軍用機を寄贈 (写真あり)
海軍へ報国706(谷江)号 軍用機を寄贈 (写真あり)
(戦闘機の寄贈のお蔭で、廣以外5人の息子は軍隊に徴兵されていない。)
☆愛国号献納機調査報告に(1210谷江号は、中間の処)に記載有り。
戦闘機-愛国1210谷江号
<リンク先 http://www.ne.jp/asahi/aikokuki/aikokuki-top/Aikokuki_1000-1999.html>
昭和18年5月 福井県奨学育英資金 10万円寄贈 (令和2年現在価格で約2.7億円位か?)
以上は谷江邃(ふかし)伯父の「父谷江長の足跡」より(写真あり)
昭和63年 藤島高等学校同窓会より顕彰碑が建立され、谷江邃(ふかし)と谷江敏男(としお)が招待される。(写真あり)
人格・功績
仕事面は非常に謹厳、時間には異常なくらい厳格、努力家、癇癪持ち、そして寡黙で下劣な手段等は一切用いらなかったとの事、品質向上に尽力して、より良い物を創る事に専念し、妥協や怠慢は一切許さなかった。 ・・・「父谷江長の足跡」より
異常なほど怠惰な仕事を嫌い、能率をあげる為椅子を無くし、机だけで立って仕事をさせたとの事、今の時代では労働基準局に引っかかるでしょうね、
大変怖い人で、だれかれ構わず怒り飛ばしていた人だったそうで、お家でもあんなに怖かったのですか?と言われたという・・・日本毛織㈱60年史より
家庭でも妻や子供もビクビクして、腫れ物にでも触る感じで、誰ひとり逆らえなかったそうです。ある伯父(谷江廣)さんは父(長)が来る時は、外出して会わない様にしていたとか、一言も、この方には意見も言う事さえ出来なかった程、怖い人だったとの事です。
仕事面では一代で会社を興し成功しましたが、男の子6人もいるのに子供に継承する事も無く、自分の代で会社を簡単に東洋紡績㈱に吸収合併してしまいました。
何故か分りかねるところです。
日本も昭和12年頃から軍国主義で制限規制になり、極度の羊毛輸入物資不足で、㈱伊丹製絨所の本来は高級毛織(サージ)生産なので、軍需毛布等しか生産が出来なく、事業経営を行われる状況ではなくなり、やる気を失なったとあります。 ・・・叔父(谷江邃)の伝言より
事業を縮小して、どれかの息子に継がせれば良いものをと思いますが、不理解で疑問符です。
☆岡倉天心(叔父)谷江長(甥)の関係
世界に出てのグローバルなところは、叔父岡倉天心に似ていますが、叔父岡倉天心のように豪放磊落で、ロマンチストでリーダーシップ的な性格の自由人ではなく、機械関係の技師で厳格この上ない人で、真反対の性格の様でした。
岡倉天心と同じで、女性関係が複雑で3人の妻を持ったと戸籍上にはあり、他にもドイツに留学中のバーデンバーデンより戦後「お世話になった」と女性より手紙が来たとの事、
母親が違うと返って仲が良くないし疎遠です。世代が変わるとなお更で、墓まで別に分けて欲しい様に要望される中です。
普通の家庭に育った者等は、ご先祖は位牌の書き物でしか分かりませんし、ご先祖を書物で調べる事も出来ません、調べようも無く面白味がありませんが、有名人には夫々に色々と有る事が判明しました。
普段、伝承事は良い事ばかりしか伝わってきませんが、父谷江敏男が平成14年2月15日に脳梗塞で死亡し、遺産相続で戸籍謄本(10本も)が必要になり、知らなくても済む事柄や、聞いた事も無い人がいたりして、アレコレ多数の知らなかった事実を知り、びっくりするやら驚くやらでした。
図書館で岡倉天心関係の本(天心全集等)を読んでいるうちに、天心の息子の岡倉一雄(若い頃は朝日新聞の記者を、その後は絵画関係の貿易商もした人物)が書いた本「我が父岡倉天心」の中に谷江長の記載がありました。又孫の岡倉古四郎(大阪芸大の教授)も「我が祖父天心」を書いています。
下記は岡倉一雄の本の一節です。
☆中外商業新報
に昭和5年7月23日 羊毛工業関係での記載文に、伊丹製絨谷江長と日本毛織の川西清兵衛の記載がある、
昔の新聞で読みづらいので訳文あり 羊毛工業に着手
☆日毛100年史にドイツへ留学した時の記載有り、
私的な面: 自宅
- 昭和7年 神戸市東灘区住吉町に邸宅を構える。
敷地面積1,229.08坪で、昭和7年から昭和19年まで所有、
地番:神戸市東灘区住吉町牛田東1581ノ2
現在の住居表示で(神戸市東灘区住吉本町3丁目7-41)である。
住友鉱業 ⇒ 神戸製鋼所を経て、その後昭和27年に神戸市の所有になり、
現在は「社会福祉法人神戸老人ホーム」の介護施設になっています。・・・リンク写真あり - 昭和11年 伊丹市北村字野畑(現在地:伊丹市北村春日丘4丁目)に敷地1200坪 建坪300坪の邸宅を建てた。
戦後、伊丹基地空港の米駐留軍に接収され、宿舎として占領されたとの事、
門から邸宅迄に車ロータリーもあり、車も所有していた。
別棟には茶室や門番の家までありました。
青線内が白洲屋敷4万坪
赤線内が自宅(1200坪 斜め下に北中学校がある その1/4の広さ)
この土地の元の所有者は白洲文平(明治初期に綿織物で巨万の財を成す)の石川屋が倒産し、後を継いだ白洲次郎(リンク)
http://aranishi.hobby-web.net/3web_ara/saihakken33.htm(連合軍占領下で吉田茂の側近として活躍し、商工省の外局として新設された貿易庁の長官を務めて、イギリス帰りの流暢な英語で、GHQと対等に論争をしたと伝えられた人物で、マッカーサーを叱った男と云われた)が所有していた土地(4万坪の敷地に木造和風建築・美術館・牡丹畑を併設)が売却され、
その一部(1200坪=3960㎡)を谷江長が購入し、邸宅を建てた。
(リンク写真あり)(伊丹邸宅跡地)伊丹市教育委員会HPより
http://aranishi.hobby-web.net/3web_ara/fmitami11.pdf
白洲屋敷跡地には、現在は石碑看板が伊丹市より建立されています。
(写真あり)
これだけの広い豪邸、戦後は固定資産税も高くなり、息子達がそれぞれ独立して出たので、
昭和26年、 そこの伊丹市北村野畑の邸宅を売却し、宝塚市ハクサリへ110坪の家に住居を構える ・・・(写真あり)
ここ伊丹の豪邸はあまりに広大な土地や家だったので、売却先は伊丹観光ホテルになったが、此の地は住宅地なのでホテル業には向かず、その後また売却され、現在は小さな庭の無いお家が26軒も並んでいました。・・・(写真あり)
・次男の谷江敏男(主人の父)に東京の田園調布へ家を買ってやったが、B29の焼夷弾で家が全焼し、伊丹市北村野畑へ帰って来たので、3家族(11人)で住み、女中さんや下男までいたそうです。
・長男(谷江長男(たけお)には、新伊丹梅ノ木に邸宅を買ってやったとある。
・参男(谷江邃(ふかし)は、神戸市東灘区住吉町1,229.08坪を相続している。
〇別荘地 須磨浦(江井ヶ島に海の家)&六甲山(こちらは凄くこだわった建物とかで売却する際、業者が「谷江長(たけし)さんのお家(うち)なので言い値で買います」と凝った別荘)に建てた。
結婚
最初の妻(小留)とは明治41年離別す、
2番目の奥さん(清)は昭和15年腸閉塞にて死別、
3番目の奥さん(主人の祖母みよ)は、平成9年五男谷江潔(きよし)宅にて104歳まで長寿する。
子供数: 死産や早世も含めてなんと3人の妻に19人の子供(男8人女11人)
成人したのは 男6人 女6人
(別記家系図あり)
谷江・坪田・岡倉家-家系図
逝去
昭和30年2月28日、宝塚市ハクサリの自宅で脳溢血にて死亡 [享年82歳]
神戸市鵯越墓苑に生前に自分が建てた墓(鵯越墓苑もくせい4区60号)に眠る。
(最初は、長田区に生前に自分で建てたけど、中国自動車道路建設の為ここに移転す、大きな墓石なので阪神淡路大地震ではびくともしなかったが、入口門柱の金具が壊れていた)